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あなたの知らない天王寺七坂巡り 南コース
−夕陽丘と「日想観」の体感を試みる−
■コースのご案内■
コースの地図 

太平寺 曹洞宗 護国山 本尊:釈迦如来
往古は四天王寺の寺域に在った一堂宇と推察される。弘治元年(1555)この地に在った龍 翔寺という真言宗の寺が前身と伝わっています。寛文3 年(1663)、加賀大乗寺二十一世 超山ァ越大和尚が幕府に願い出てその荒れた諸堂を復興し曹洞宗に改め護国山太平寺 と称しました。当時より伝わっていた加賀前田家の位牌等は惜しくも戦災で焼失したが、 数え13 歳の子どもが虚空蔵菩薩を拝む伝統行事「十三まいり」は現在にも伝わり、タ 陽丘の春の風物詩となっています。また、北山不動明王は元緑時代の名医北山壽安の入 寂地であり、病気平癒を祈願して参詣する人が絶えない。昭和57 年に仏殿が復興されると清凉寺様式の釈迦如 来が祀られ、境内には前田家から移された石の島居や、祇空翁文塚が見え、歴史の一こまを物語っています。

家隆塚
新古今和歌集の選者の一人の従二位藤原家隆(1158〜1237)卿の墓。藤原定家と並び称せられる鎌倉時代の歌人 です。嘉禎2年(1236)この地に小庵(夕陽庵)を設け日想観を修め「契りあれば難波の里に宿り来て 波の入 り日を拝みつるかな」の和歌を残し正座合掌してこの世を去ったと云われています。79 才で歿し、五輪の墓碑 が残され、夕陽丘の地名の由来となっています。日想観とは西に沈みゆく太陽に向かって念仏を称え、極楽往 生を願う、観無量寿経に説かれている念仏修業の一つです。

稱念寺 真宗大谷派 百済山 本尊:阿弥陀如来
約440 年前、尾州前田村より前田利家に伴って久太郎町(中央区)に開山しました。近松の「庚申心中」の二人 のうちの男性を葬った寺で女性と赤ん坊は銀山寺に葬られています。先の空襲で寺は焼 失しましたが本尊は防空壕に納め無事で、再建のため夕陽丘に移りましたが、門徒の船 場商人の多くは亡くなったり近江に帰られました。薩摩藩家老小松帯刀の墓がこの地に あったのは、掛かった医者がこの辺りであったからとのことです。また、藤原家隆を慕った陸奥宗光の父の紀 州藩士伊達宗広がこの夕陽丘の家隆塚を守り庵を構えたことから陸奥家の墓が残りました。地蔵菩薩は宗光の 娘が20 歳で没した折り等身大の地蔵をまつられたとのことです。

浄春寺 曹洞宗 勝鬘山 本尊:釈迦如来
藤原家隆が日想観を修業するため設けた夕陽庵の跡を、永禄3 年(1560)佐々木長治(盛 綱の子孫)が寺に改め、天正10 年(1582)長治が亡くなると戒名の慶叟浄春大居士に因 んで浄春寺と命名しました。芭蕉墓と芭蕉反古塚(芭蕉100 年忌 寛政5 年建立)があり ます。また、天文・医学者の麻田剛立の墓があり、豊後藩の侍医として仕えたが36 才 の時脱藩して大阪に上り、懐徳堂の中井竹山・履軒の援助を受け、独学で暦学を極め、 寛政7 年(1795)江戸幕府は暦改正のため、剛立を起用しようとしましが、高齢を理由に 門弟高橋至時(東岡)・間重富(長涯)の2人に代わらせ改暦を成功させました。寛政 11 年(1799)66 才で歿。寛政暦は明治初年まで用いられました。豊後竹田の出身なのでそれを号とした天才画 家田能村竹田の墓があります。岡藩の侍医でしたが画才を以て知られ、天保6 年(1835)60 才で歿しています。

口縄坂
天王寺七坂の中で一番情緒ある坂で、下り口にある織田作之助の 文学碑に「木の都」の一節が刻まれています。冒頭で主人公が府 立高津中学校のバスケット部へ入って4 日目、先輩について、夕 陽丘女学校の校門を一度だけくぐった話が出てきます。「指導を 受ける生徒の中に偶然水原といふ、私は知っているが、向こうは 知らない美しい少女がいたので、私はうろたえた」と書かれてい ます(久志本秀夫作上町台地坂道紀行より)。由来は、この坂が 険しく縄を架け渡しそれにすがって上り下りしたためとか、大阪築城の折りここから縄打ちが始まったので口 縄と呼ばれた。一般には下から見上げた坂の形状が蛇の腹に似ているのでともいわれています。階段下左手に、 大阪府立夕陽丘女学校跡の碑があります(明治41 年、島之内から移転.昭和9 年北山町へ)。 また、善龍寺はさくらの季節にはしだれ桜が見事に咲き誇ります。

稱名寺 浄土宗 憤念山西運院 本尊:阿弥陀如来
寛永元年(1624)善得の開創。山門は、四文銭の瓦が海鼠(なまこ)壁に埋め込まれている珍 しいもので、緑に恵まれた上町台地の西斜面に立地する樹林帯と歴史遺産が一体化した面 的な景観に寄与するものとして、2008 年6 月に国の登録有形文化財に指定されました。有 名な仏師西村公朝氏の海中出現口縄聖観世音の仏像があります。「口縄坂」の口縄の名は菩 薩名からきているともいわれます。

西照寺 浄土宗 光明山寿徳院 本尊:阿弥陀如来
光明山寿徳院といい、慶長元年(1596)心誉利傅を開山上人とする浄土宗総本山知恩院の末寺 として開基しました。西寺町(現:下寺町)の南のさくらの名所で、山門の左側に十一面観世 音菩薩像、右側に仏足石があります。安政6 年(1859)に作られこの辺では古い仏足石です。 東横堀本町橋と濃人橋にあった浄圓寺の七軒の塔頭の一つで、元和年中に現在地に移転しま した。大坂市街の拡大発展を予測して周辺部へ、また軍事上の見地から有事に集結した軍兵 の駐泊施設や外部から大阪へ侵入しようとする敵への障害物として、大阪城を守る位置に定 められたといわれます。昭和20 年3 月13 日夜の戦火で類焼、37 年本堂再建、58 年戦時供 出した梵鐘を再鋳落慶し、毎朝7 時と除夜の鐘を撞いています。富永仲基(江戸時代の思想 家・弁証法的思考で「大乗非仏説」を唱える)一族や上田誓斎(薬剤家)などの墓があります。

円成院(遊行寺) 時宗 仏智山円成院 本尊:阿弥陀如来 松尾芭蕉墓
松屋町筋25 ヶ寺の中で、この寺のみ時宗です。延享2 年(1745)時宗浄光明寺(鹿児島市) の隠居寿門が四天王寺(当時は天台宗)の塔頭薬師堂を買収して、時宗寺院「円成院」を創建 しました。明治初期まで下寺町はこの寺で行き止まり、天王寺詣りの人はここで左に折れ、 寺の境内を通り抜け、大江神社の階段か愛染坂を上って、谷町筋に出て参詣しました。明治 20 年の逢坂改修の時、寺の真ん中をぶち抜いて道を南方(天王寺公園前)まで通しました。 芭蕉の高弟の志太野坡が大坂は芭蕉の終焉の地なのに何も無く残念だと思い、41 回忌の享 保20 年(1735)に墓を建てました。天明3 年(1783)、野坡の後継者と自認する不二庵二柳は、 墓が傷み雑草繁茂する中に押し込められていたのを嘆いて、現在の所へ移し、玉垣を築いて 再建、芭蕉の木像を奉納しました。句碑に「旅に病で夢は枯野をかけまわる はせを」と刻まれています。(一 説には枯野をかけ廻る)

伶人町
伶人とは雅楽を奏する楽人のことで、ここに天王寺楽所に所属する伶人が集団で居住していました。東京遷都 で、天王寺楽人(天王寺方)、京都の宮中の北京楽人(京方)、奈良興福寺の南京楽人(奈良方)の三方楽所が宮内 省に奉職することを命ぜられ、天王寺楽所も廃絶しました。その後、一部の楽人が官を辞めて大阪に戻り、大 阪雅亮会を明治17 年(1884)を設立し、現在は天王寺雅楽の楽人として伝統を守り活躍されています。伶人町に は倉敷紡績の大原孫三郎が設立した大原社会問題研究所がありました。世界屈指の研究で知られこの蔵書が夕 陽丘図書館のもととなっています。

清水坂
大阪星光学院と清水寺(清光院)との間の愛染坂と交わるまでの広いゆったりとした 石畳の坂道です。清水寺の北側にあるためこの名で呼ばれています。高台にある新 清水寺境内からの眺望は格別で、さらに境内南側の崖から流れ出る滝は、京都清水 寺の「音羽の滝」を模した「玉出の滝」で大阪唯一の滝として知られています。

一心寺 浄土宗 坂松山高岳院 本尊:阿弥陀如来
法然上人が文治元年(1185)慈鎮(慈円)上人の招きにより、この地の四間四面の草庵 にて日想観を修められました。たまたま四天王寺に参詣されていた、後白河法皇も床 を共にされ三人で日想観を修められました。一心寺の名は慶長元年(1596)本誉存牟 上人が法然上人の旧跡を慕い1000 日禁足、昼夜不眠の念仏を修め再興したことによ り名付けられました。納骨の寺として知られ、納められた骨によって10 年ごとに阿 弥陀佛が作られています。平成19 年4 月13 期佛の開眼法要が行われました。

一心寺山門(仁王門) 平成9年完成
山門は前住職の工学博士高口恭行長老の設計です。平成9 年4 月第12 期骨佛開眼法要にあわせて、鉄骨造りの 山門に改まり、両脇に青銅製の総丈5 メートルの仁王像、扉の四人の天女は、画家秋野不矩氏の原画を、神戸 峰男氏が浮き彫りにしたものです。右扉よりスリランカ・タイの南方系、其の左インド系、其の左中国・朝鮮・ 日本極東系、左端シルクロード系の天女。インドの佛蹟では人々がその胸と腰にふれて、生命のご利益を得る とされています。戦災で焼失した山門は大阪城玉造門を移設したと伝えられ「黒門」と呼ばれていました。

一心寺本堂 昭和41 年再建 総檜造り
現在の本堂は法然上人750 年御遠忌を記念して、5 年の歳月を掛けて再建完成されました。十間四面、総檜造 りの壮麗な建物です。本尊は大本山百万遍知恩寺からお迎えした阿弥陀如来立像を中心に両脇陣に施餓鬼壇が 置かれ、年中休むことなく施餓鬼の法要が営まれています。

参考資料
(財)大阪市土木技術協会・(財)大阪都市協会「大阪市の旧街道と坂道」
各社寺の資料より抜粋
   
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