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天王寺区 未来わがまち会議
 天王寺区探訪ウォーク第3弾
あなたの知らない天王寺街道巡り 〜隠れた文化財探訪と未来わがまち大茶会〜
■コースのご案内■
コースの地図 
奈良街道
旧街道起点:恵比須町交差点〜終点:添上郡奈良町(現奈良市橋本町)
経路:逢坂〜大道〜新家村〜平野郷〜亀井村・・・
明治時代以前の古図を見ると、奈良街道の名称はまだ存在せず、平野道(大坂道)の道路名が記され ている。明治5 年10 月道路の制を定めた堺県の布達には国分街道と記され、明治14 年2 月以降堺県 廃止により奈良街道になりました。道路は逢坂を上り、天王寺西門交差点を右折、バイパス交差点を 渡り、一つ目の辻(堀内運送店)を左折東へ、バイパスを斜めに渡り、庚申街道と交差、25 号線を渡 り、「天王寺バイパスを渡り、寺田町公園西を右折」(この間俊徳街道と合流)、25 号線を渡り、河堀稲 生神社前を通過、大道三丁目交差点を渡りJR寺田町駅中央(大道町南公園北側)交差点を東へ源ヶ 橋交差点手前で25 号線と合流平野へとなっています。


俊徳街道
旧街道起点:四天王寺南門〜終点:高安郡神立村(現八尾市神立)
経路:南門を出てすぐ東折れ(現在消滅)寺田町公園、興国高校南側を通り、朱雀大路を渡り、玉造通を渡り、熊野大神宮碑と国分寺間を舎利寺方面へ
俊徳街道の由来は、中河内郡高安村(現八尾市高安町)の信吉長者の嫡男俊徳丸は才貌共に優れ、四天王寺の舞楽童となりましたが、継母は俊徳丸を廃して、わが子を嫡男にするため、百三十六本の針を、川瀬に打ち込み呪詛したため、癩病と盲目になり、継母に遂われて、天王寺の乞丐となりましたが、蔭山長者の女が、遂われた事を聞き後を慕いて天王寺に来て見ると、俊徳丸が、塵芥の間に居るのを見て慟哭し、観音様に詣でて本復を祈ると忽ち病平癒し、手を携えて高安へ戻り、夫婦となり家督を継ぎ、繁盛しました。一方信吉長者の家は、信吉死後その業報により没落しました。謡曲の弱法師・浄瑠璃の合邦の辻はこの遺話を脚色したものです。俊徳丸が、高安より天王寺遠山式部の許へ通った道より、俊徳街道と名付けられたようです。

下高野街道(別称狭山街道)
起点:東成郡天王寺村天王寺(現天王寺区大道5 丁目5 番・6 番間)
終点:南河内郡野田村廿山(現堺市北野田)
大和街道と師範前で別れ、寺田町駅南口より南進、元々幅3尺の野道で、明治23 年二間道路に拡幅。

国分寺跡
国分寺跡 聖武天皇は、天平13 年(741)奈良東大寺を総国分寺、法華寺を総国分尼寺とし、全国に国分寺・国分尼寺を置いた。摂津国分寺については、ほとんど知られることがなかったが、此の付近から奈良時代の蓮華文や唐草文軒瓦が出土し、国分寺跡と推定されている。その後衰退した寺は延宝8 年(1680)、渡来僧(明)の南源が再興したと云われています。

久保神社
聖徳太子が四天王寺建立の際、創建された七宮の一社とされているが、その守護神は願成就の宮であったと言われ、ご神体は不明。久保神社は明治5 年村社、明治40 年10 月14 日東成郡生野村国分「稲生神社」、国分町西「熊野大神宮」を合祀、昭和3 年御大典を記念して、天照大神、稲荷大神、熊野大神の三神を合祀、昭和20 年3 月の空襲で鎌倉時代様式の雄大な社を焼失しました。久保神社の久保の地名は窪地の意味で、茶臼山から続く低地であることからきています。また、当社は浪速神楽の家元としても知られています。

願成就宮:
聖徳太子の深く信仰あらせ給い御願の成就を遂げ給うにより成願宮と称え今に庶民の信仰絶えず霊験あらたかなりと伝えられています。
正一位白玉稲荷大明神:
五穀豊穣から商売繁盛・家内安全に至るまで幅広い御神徳で知られています。
大岩小岩大明神:
最も古い自然信仰の姿を今に残し岩そのものを御神体とした頭脳の神様をお祈りしている神座です。近年までは頭に持病のある方、また入試をひかえた学生諸君に至るまで広くその信仰を集めている御社です。
方除神社:
悪い方位を祓う方災除の神として知られていますが新築・引っ越し色んな方位を司どるという事で信仰されています。
白竜神社:
女人の守護神として崇められ、子宝にも恵まれ商売繁盛など心願成就の霊験あらたかなことで知られています。

清寿院(関帝廟・南京寺)
清寿院(関帝廟・南京寺) 三国志の英雄関羽を祀る大阪関帝廟は、正式には黄檗宗白駒山清寿院、中国との縁が深いため南京寺と通称されています。江戸末期明和元年(1764)12 月浄土宗住職宗円より黄檗僧大肩和尚が譲り受け、中国僧大成和尚を中興開山として、本堂を再建して黄檗宗の末寺となりました。明治18 年(1885)長崎から来阪した広東の貿易商の利興成、同妥泰が発起人となり、日本人取引業者を含めた篤志家と共に本堂・拝所・表門等を中国風に改築し、祭神を本堂祭壇中央に関聖帝君、左側に天上(后)聖母・右側に財神爺(金儲けの神)が安置されています。拝殿の仏像は華商が寄進したものです。この堂は築240 年の土蔵造りの貴重な建物です。大成和尚が中国より請来した関帝像は本堂うしろの内殿にお祀りしてあります。

寿法寺 浄土宗 是心山(通称もみじ寺)
寿法寺 浄土宗 是心山(通称もみじ寺) 明治37・8 年頃は天王寺区役所付近まで満々と水をたたえた毘沙門池で湖畔の寿法寺は紅葉の名所だったようです。寺の古文書に依れば、元禄4 年(1691)桑津村見性寺広譽上人一寺建立を計画、堂島油問屋日野屋利兵衛が田畑を寄進、春日屋九兵衛が本堂を元禄12年(1699)に、庫裏・方丈は元禄14 年(1701)に建立、塩屋孫左衛門は釣鐘・表門を元禄15 年(1702)に、観音堂・土蔵は元禄16 年(1703)に建立された歴史ある建造物です。山号は利兵衛の法名是心、寺号は妻の法名寿法から取り、是心山寿法寺と名付けられました。最近大修理をされ建立当時の美しさを保たれています。境内には平成18 年1 月20 日に大阪市指定文化財の六十六部廻国供養塔(宝永8 年1711 建立)・「大阪事件」犠牲者の慰霊碑・笑福亭一門・芸能界の名士の墓碑があります。今回は三百年前の釈迦涅槃像のお軸等をお寺のご好意で拝観できる機会ができました。

四天王寺極楽浄土の庭
四天王寺本坊の「極楽浄土の庭」は、極楽浄土を再現した庭園です。中国の僧侶である善導が説いた「二河白道」の喩話に基づいて造られています。自然のわき水を利用した二つの小川「水の河」と「火の河」があり、水の河は人生の順境にあるときの貪(むさぼる)のことで、火の河は人生の逆境にあるときの瞋(じん:怒り恨むこと)です。この二つの河に挟まれた白道が極楽浄土への道と喩えているそうです。そして「瑠璃光の池」と「極楽の池」が配されています。この広さ1 万uの池泉廻遊式庭園の造園は江戸時代初頭とされています。庭園内では、湯屋方丈とその前庭である座視式庭園「補陀落の庭」、第五回内国勧業博覧会(明治36 年開催)で出品されたパビリオンを移設したルネッサンス様式の西洋建築「八角亭」、五智光院なども見ることができます。

湯屋方丈(重要文化財)
創建年代は未詳ですが、現在の建物は、1617 年徳川秀忠の建立で、食堂の東北にあったのを明治時代に移築したものです。今は客殿として、また授戒の道場として使用していますが、昔は、生身供のお膳を調進した所といわれています。

五智光院(重要文化財)
大日如来を本尊とする五智如来を安置し、授戒灌頂会を修する道場で、灌頂堂ともいわれます。また、徳川家代々の位牌を納めており、御霊舎(みたまや)ともいわれました。五智如来とは、 密教で五智を五仏に配すことをいいます。五智とは、法界の自性を明確にする智、鏡の如く法界の万象を顕現する智、諸法の平等を具現する智、諸法を正当に追求する智、自他の作すべきことを成就せしめる智、の意味です。

参考資料
(財)大阪市土木技術協会・(財)大阪都市協会「大阪市の旧街道と坂道」
各社寺の資料より抜粋
   
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